信じる←選ぶ←感じる
生きる上で必要なもののひとつに、自分の生き方の拠り所となる信念がある。
ただし、私が思うに、オリジナルの信念などというものは、もはや存在しない。社会が変化するごとにディテールは変わっても、生きる上での芯になる信念というものは、もう出尽くしたんじゃないかと思う。
これだけ多くの人間が、存在し、経験し、綴り、話してきたのだから。
我々はその沢山の標本の中から、どれを選ぶべきなのか考えているだけだ。
しかし、その標本棚は我々個人が、見聞や経験を通して自分の中に作り上げたものだ。
だから、人によって選択肢の数は違う。
見聞と経験は、生きることを豊かにする、というのは本当かもしれない。
選択について考えることには、自分がなにを「選ぶべきか」の他に、なにを「選びたいか」も含まれる。
どちらにしても、それは自分がどう「感じたいか」に準拠する。
どう感じたいか、は、自分がなにを「快」とし、「不快」とするかによって選択される。それは結果的に他人のそれと似ていたとしても、とても個人的な選択のはずだ。
信念は考えることによって選択され、考えることに先行して「感じる」がある。
自分がなにを「感じているのか」を知らなければ、なにを「感じたいか」もわからない。
自分が今、なにを感じているのかに非常に注意を払う必要がある。
それを一つずつ言葉にすることによって、自分にとっての快・不快の一貫性が見えてくる。
そうすることによって、私は自分にとって快であるものを自分の生きる上での信念=拠り所として生きる事ができるようになる。
一時的に辛さを受け入れるのも、変化を恐れないのも、最終的にそれは自分にとっての「快」であると思うからこそ、選択できることだ。
今のところ、こんな感じでなんとか楽しく生きてます。
快・不快のマジョリティが、社会的正義なのかもしれない。
標本棚をもっと充実させよう。
仕事、頑張ろう。