在った処に戻るような死に方(死についての虚偽の一つとして)
以下の1から5の文章の語尾には、「かもしれない」が着く。
そして、魂というものが存在することが前提で書かれている。
1.肉体が失われるということは、魂が、有限の肉体を離れ、肉体に入り込む以前に在った、共同の場に戻ること。
共同の場というのは、魂の集合体とイコールのようなもの。
2.その共同の場では、身体を持っていた頃のような、はっきりした自我はない。共同の場では、魂は、他の魂と少しずつ混ざりあったり溶け合ったりしている。
3.またいつかどこかで、この地球上で形のあるものに魂が入り込む時には、以前とはまた少し違った魂だ。
4.魂には、身体を持っていた期間に他者と培われた親愛の情が刻まれている。
5.刻まれた親愛の情によって、また魂同士は呼びあって、新たな形状同士で出会う。
結論
先立たれた方は、もう肉体にさわり、声を聞くことができなくなり、同じものを見て笑ったり憤ったりすることができなくなることは淋しいけれど、先立たれた人が今、共同の魂の憩い所で穏やかにしていると思えば、心が慰められると思うんだ。
そしてきっと呼び合いながら、また出会えるんだろうと思えば、少しは悲しみも減るかしら。
猫を今までに4匹看取ってきた。
猫はいつも、静かに、一人で、恨みも後悔も未練もなく、今、目の前にある死のみを感じて、肉体が終わるのを待っているように見えた。
私には見ていることしかできなかったが、その度に神聖な気持ちにさせられた。
私もいつかあんな風に死ねたらいい。
サドンデスでは、じっくりと死に向き合うのは難しいかもしれないけど。